2011年08月31日

自分に課した義務

8月も今日で終わりである。小学生じゃなくてよかった。心から安堵する。社会人とはありがたいものよのぉ。私が今締め切りに追われているのはこのブログだけである。今年の初めに、毎日何かを書くと決めたのだ。(まとめ書きやちょっと短めというインチキは最初に可としておいた。コピペは途中で勝手に可とした。ただし、必ずコメントを加えることというルールあり)だからいっしょうけんめいしょうもない文章を書いているのである。12月31日に365日分あればいいのだが、あまりためすぎると後がキツイので、1ヶ月単位で〆ることにしている。日頃からネタは探しているのだが、忙しくて更新できないときはネタだって探す余裕がないので、ダブルパンチで苦しい。ランキングとかを参考にしようと思っても、世情に疎い私には役に立たない。写真や絵を載せるという手もあるのだが、写真専用のブログがあるのでそれはしたくないのだ。テーマを自分で30ぐらい考えるのがいいかもしれない。他人が作ったテーマが合わないのなら自分で考えるしかないな。うだうだ言ってるうちにそろそろ400字だ。はい終了。
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2011年08月30日

夏は終った

猛暑も過ぎ去り、日中は蒸し暑いものの、夜はエアコンなしで寝られるほどになった。虫の声がかしましく、秋を感じる。わが家のひまわりは8月の中旬過ぎにようやく花開いた。種まきが遅かったのである。雑草だらけでうら寂しい庭の中で唯一きらきらとしており、なぐさめられる。今年の夏は資格試験の勉強で忙しかった。気になりつつも庭の草むしりができず、雑草だらけになっている。壁に取り付けたキッチンカウンター(いちおう勉強机)の上は本や書類が散乱している。新聞は2ヶ月以上読まずに積んである。提出しなければいけないレポートがいくつかある。買い物レシートはおそらく4か月分くらいたまっているだろう。買ったはいいが、読んでいない本が相変わらず高く積んである。(これは忙しさと関係ない)忙しさにかまけていろんなことを後回しにしていたツケは大きい。とにかく一度整理しないことには、そのことがストレスとなって気分が芳しくない。思い切ってある程度の時間をかけて整理しようと思う。
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2011年08月29日

銭湯と銭湯絵師の健闘を祈る

13年ほど前、失業給付をもらいながらぶらぶらと遊んでいた時期があった。家にじっとしていられる性分ではないのでよく出かけた。お金はなるべく使わないようにしていた。当然である。元々少ない給料の6割ほどしか失業手当はでないのだから、大事に使わねばならない。タダで入れるところや安く入れるところで半日から終日を過ごしていた。そんなころ凝っていたのが銭湯めぐりである。公衆浴場は400円ほどで入れるので楽しかった。古い商店街にある銭湯にはじめて入ったときは、そのお湯の熱さにたじろいだ。冷水を体にかけたら入りやすいかもと思い、どんどこ水をかけていたら、おばはんから「ちびたーーーい!常識ないね!」と叱られた。私は田舎育ちなので銭湯の経験はほとんどない。いくつかの銭湯で他の客から叱られた。脱衣場を水浸しにしたとか、風呂の入り方がどうだとか、いろいろ注意を受けた。あい、すいません…と小さくなっていた。市内の銭湯はおおかた制覇した。町の銭湯には、壁に富士山とかの絵が描いてあり面白かった。銭湯絵師という職業があるそうだ。クーリエジャポン10月号に、東京の銭湯絵師が載っていた。銭湯の背景画は100年の歴史をもつ芸術とのこと。だが、「裸のつきあい」という日本の伝統が廃れるなか、この芸術も消滅の危機に瀕しているようだ。現在東京には1000軒の銭湯があるのみで、ピークの60年代に比べると半分以下に減っているとのこと。当然ながら絵師だって数えるほどしかいない。雑誌では見習いとして、女性初の銭湯絵師が紹介されている。彼女は大学で美術史を学んでいるときに、富士を描く銭湯の背景がに興味をもって見習いになったとのこと。28歳というから、すでに7〜8年は経っているであろうが、まだ師匠から富士を描くことは許されていない。富士は師匠にとっても難しい題材で、描くときはいつも悩むとのこと。女性見習い絵師は「20年後、この仕事をするのが私だけになってしまうという事態は絶対に阻止したい」と言っている。銭湯絵師は生き残れるのか…銭湯は今じゃめっきり減っているので、絵師どころか、銭湯そのものが絶滅の危機に瀕しているといえる。陰ながら銭湯および銭湯絵師の健闘を祈る。
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この夏私は勉強しました!(自慢してます!)

この夏は(主に8月に入ってからだが)朝の涼しい時間帯を利用して勉学に励んだ。先日行われた社会保険労務士試験に挑戦したのである。実は昨年も受けたのだが、落ちたのは当然として、試験中わからなすぎてヒマだったのである。さすがに今年は去年に比べ勉強はしたが、いかんせんレベルには全く達していなかった。実力不足を強く実感した。受験雑誌などに、毎日4時間の勉強は当たり前、休日は6〜8時間はやる、とか書いてありビックリ仰天、愕然としたのだ。私およびじゃない…去年のどうでもいいぶりとは明らかに違い、今年は「くやしい」と思った。何を問われているのかさえわからない問題がほとんどであった去年とは違い、あぁっ、これどっちだったっけ?ああーーーっテキストのあそこに書いてあったことなのにぃとか、問題集でお目にかかったことあるのにぃとか、これはバッチシと思っていた自信のある分野でしょうもないミスしてたり、普通の受験生レベルには達していたのだ。合格者にははるかに及ばないながらも、自分的にはいっしょうけんめいやったのだ。そんなに忙しくもなかったし、集中できる限度内で(45分ほど)がんばっていたのだ。スタートがちと遅かったが…なにせ去年は身の程を知らなかったので、4月ごろから勉強を始めたうえに、CFPの試験も受けるつもりでAFP研修もやってたので、社労士試験の後はレポート提出に追われ、その後はCFPの勉強をしていたのである。もちろん落ちた。歯が立たなかったというのが正直なところである。今年に入ってそろそろせないかんなと思い社労士の勉強を始めたのだが、秋がこのような状態であったため、問題用紙もなくしたり(もちろん答え合わせもしていない)仕事で異動があったりと(ただの言い訳)ちょっとバタバタはしていた。しかし、それでも自分的にはそーとー勉強したつもりであった。世間を知らぬとは恐ろしいものよのぉ…しかししかししかし!!それでも私はこの夏生まれてはじめていっしょうけんめい勉強したのである。来年こそはがんばるぞおおおおお!!その前に10月のケアマネだな。
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2011年08月28日

おじさんたちも生き残りにかけてるんだな

本日社会保険労務士試験を受けてきました。結果は…気にしないことにしてますから!来年も受ける気バリバリありますから!そんなことよりもですね、(受験結果よりも大事なことが?)今日の感想です。私はわりと試験慣れをしているのですが、(どーでもいいような資格試験などをよく受けてるので)さすがに社労士ともなると、内容も難しく時間も長いので、ちょっと緊張しました。珍しく早めに会場に着き、席に座って他の受験生が入ってくるのを眺めていたのですが、来る人来る人みんなおじさんなんです。びっくりしました。髪がかなりさびしい、おそらく50〜60代であろうと思われる男の人ばっかりなんですよ!おばさんはチラホラいたが、若い人(特に20代)はほんと少なかった。私はスクールに通ったり通信講座を受講したりせず、独学だったので、どんな人が受けるのか全く知らなかったのです。おじさんたちはリストラされて失業中なんだろうか?現役だけれども職業生活は風前の灯で、将来に備えて資格でも…と考えているのだろうか?勉強不足のまま試験日がきてしまい、落ちるんだろうなあとウジウジ考えていたのだが、おじさんたちを眺めていたら、なんだか元気が出てきた。ついでに試験前の緊張もほぐれてしまった。こんな頭の薄い(けっして人様のこと言えないんですが!)おじさんたちでさえがんばってるんだ、私にはまだまだチャンスがある!来年も再来年も受ければいいんだ!そう思えて元気がでてきたのです。どう見てもおじいさんにしか見えない白髪の男の人もいました。どう見てもおばあさんにしか見えないおばあさんもいました。来年もがんばろうと勇気が出ました。凹むのは11月に入ってからで十分と思い、解答速報には目もくれていないのですが、それにしてもTACだのLECだの資格予備校のやつらの商魂はいかに。昼休憩のときに揃いのユニフォームでやってきて、隅っこに集まってなにやらやってるのです。「受講生確保するぞー」「ライバル校に負けるな」とかやってるんでしょうか。来年度は少し受講してみようかな。
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2011年08月07日

人の心を読む「覚(さとり)」

夏とくれば、胆だめしだの怪談話だので、オバケや幽霊がにわかに脚光を浴びるようだ。本屋へ行くとオバケ関係の絵本や物語がいっぱい出ている。どれも怖いというより、かわいいというかんじだが。図書館のほうはもうちょっと本格的なものが並んでいる。先日「日本の妖怪百科」シリーズ・山の妖怪編を借りてきた。その中にでてくる「覚(さとり)」という妖怪のことについて書きたい。覚は北国の山の中に住む、大型の猿に似た全身が長い毛におおわれた妖怪で、人が心に思うことは、どんなことでもすべて読み取ってしまうそうだ。だから覚(さとり)と呼ばれるのだ。昔、一人のきこりが、山で木を切っているとさとりがあらわれ、きこりは驚いて「わーこわい」と思いました。さとりはゲラゲラ笑って「今おまえは怖いと思ったな」と言います。「ぐずぐずしてると取って食われるぞ」と思い青くなっていると、今度は「ぐずぐずしてると取って食われるぞと思ったな」といいます。何を思ってもさとりにはわかってしまうのです。もうどうにでもなれとあきらめると、やはり「なるようになれとあきらめたな」と言います。きこりいよいよあきらめて木を割る仕事を続けました。すると、斧が当たった木が砕け飛んでさとりの目に当たり、目がつぶれてしまいました。きこりもさとりもまったく思いもよらないことだった。さとりは「思うことより思わないことのほうが恐ろしい」と言って逃げていったそうだ。
 なんだか教訓めいた話だ。さとりという妖怪がいることも初めて知った。「思う」というのは人間にしかできないことである。それは良いことでもあるし悪いことでもあると思う。良い思いとは人を思いやる優しい心などだろうな。悪い思いは嫉妬や怒りなんかだろう。人間である以上なにかを思うものなのだ。頭の中を空っぽにするとか、心を無にするとかは言うは易く行うは非常に難しであろう。
 私はオバケや幽霊、妖怪など科学では説明できない不思議なものが好きだ。人間の理解を超えたものの存在に敬意を感じる。人間が一番偉い、賢いという考えは不遜で罰当たりであると思う。理解できないことを物の怪などのせいにして恐れた昔の人を笑う気にはなれない。私は「罰が当たる」ということは本当にあると思っている。よくないとわかっていることを、自分にいいわけしつつやり続けていると、必ず天罰のようなことが起こる。本にでてくる妖怪はみな人間のいい部分、悪い部分を持っている。人間と深いつながりがあるようだ。ユーモラスな妖怪が多いなかで、鬼は容赦なく怖い。人間の恐ろしい面が一番よくでているのが鬼かもしれない。鬼にだけはなりたくないかも…
posted by みょうみょう at 19:44| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年08月02日

ようやくカントにたどり着く

サンデル教授の『ハーバード白熱教室講義緑・上』をようやく読みおわった。集中力の限界は1時間弱なので、260ページの本を読むのに5〜6時間はかかっている。先が気になるのになかなか進まず、もどかしい思いだった。ミステリー小説とかだったら我慢できずに、結末を読んでしまって、その後ゆっくり読み進むのだが(ドキドキ感は激減するけど)、この本はそれができない。どんなにもどかしくても、ひとつひとつ納得・理解しながら辛抱強く読み進んでいくしかなかった。難破船の乗組員が、生き延びるために仲間を殺して食べた事件(よい結果が得られるなら、その行動は正しいか?)、金持ちに強制的に多額の課税をして、貧しい人間に分配することは正しいか?(ビル・ゲイツやマイケル・ジョーダンを例にだして)、代理母は契約を履行しなくてもいいのか?、徴兵制の問題点は?など具体例を挙げながら、その考えの根拠となる歴史上の哲学者や思想家の考えに言及していくというやり方で講義をすすめている。各章についている訳者の小林正弥氏(千葉大学法経学部教授)の解説の助けもあり、なんとかこの講義についていけた。功利主義者のベンサムやミル、徹底的に自由権利主義者であるノージックなどリバタリアン、その原点であるロックなどを検証している。最後カントにようやくたどり着いたときには心底ホッとした。カントは功利主義を否定している。行為の道徳性を結果から判断する功利主義を間違いだとしている。カントは、無条件に間違っていることがあるという。定言的な道徳理論者である。結果がどうであれ、ある種の絶対的な道徳的要請や義務や権利の中に道徳性を求める、というのが定言的な考えということだ。カントはサンデル教授が念を押しているように難解である。20代の頃、よく村上春樹の小説を読んでいたのだが、彼も作品の中でカントを引用していたが、まったく、さっぱりわからなかった。わからないことさえもわからなかった。今回とりあえず相当難解であるということはわかった。なんとか8月中に下巻を読み終わりたい。下巻はカントを中心に講義がすすめられるので、さらに時間がかかると思う。わかる・理解できるということは、わからないときと全てが変わってしまうということだ。わからなかった以前の自分に戻ることができなくなってしまうということだ。それでも今はわかりたいと思う。
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2011年07月30日

プラスチックはちゃんと燃えるぞ。つまり燃えるゴミだ。

職場でその日のゴミ当番にあたるたび、分別のバカバカしさにうんざりする。燃えるゴミと、プラスチックなどのリサイクルゴミに分けて捨てなきゃいけないんだが、一体何のために分けてるんだろうと真剣に悩む。プラチは再生するためだろう?でもきったねぇプラチゴミを捨てるとき、どうやって再生すんだろう?って思わないのかな。思わないんだろうな。思えば燃えるゴミに入れるな。それとも、汚いけど、でも…プラスチックだし、燃えるゴミに捨てるのはいけないよね?と思い、汚い汚いプラチをポンってリサイクルのとこに捨てるんだろうね。家庭のゴミを町内で出すときは、しっかり洗ったものじゃないと苦情がくるのだが…施設のゴミはきったね〜もんもちゃーんと誰かが分けてるのかな?そんなわけない。おそらくリサイクルゴミも燃えるゴミもなんもかもいっしょにして燃やしてしまってると思う。そんならなんで分けてんだろ?こりゃいっぺん真剣に追跡調査ををしてみないといかんな。そういえば偽善エコロジーとかいう本もあったな。誰かがこれで儲かってんだろうけど、なんでみんな得もしないのに分別するんだろう?もしかしてなんか得してんのかな?だとしたらどんな得してんのかいっぺん追跡調査をしてみないとな。どやって?無理だって!それにしても、分別されたゴミをいっしょくたにして燃えるゴミに放り込むのは気分がよい!ざまーみろだ!
posted by みょうみょう at 22:02| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「お疲れ様」と「ご苦労様」

先輩や上司に対しては、「ご苦労様」ではなく「お疲れ様」と言いなさい。20歳の頃勤めていた会社で、年配の女性社員からそう教えられた。以来なるべく、上司に対してだけではなく、同期や後輩に対しても「お疲れ様」で通している。なんとなく「ご苦労様」は偉そうなかんじがして言えない。今朝のラジオでこの話題がでていた。世間では私が教わったとおり、目上や先輩、上司には「お疲れ様」と言うのが常識だそうだ。たまに、そのことを知らない新人がいて、上司に向かって「ご苦労様」とやって、すごくむかつかれたりしているらしい。だが、はたしてほんとうにそれは正しい使い方なのか?間違った言葉の使い方が、世間一般に浸透しており、いつの間にかそれが正しくなってしまっているということは、日本語ではよくあることだ。この「お疲れ様」と「ご苦労様」について調べた人がいるということだ。どうやら江戸時代までは「ご苦労様」というのはもっぱら目上の人に使われていたらしい。それが明治だか大正だか昭和だかになると、一転「ご苦労様」は目下のものに使われるようになったとか。なぜか?当時流行った時代小説の中で、武士が家来に対して「ご苦労であった」とねぎらいの言葉をかける場面があり、それが広まったとか。しかし実生活では、武士が家来をねぎらうときは「大儀であった」であり、「ご苦労であった」とは言わないそうだ。誤った使い方が広まってしまったようだ。だが、「ご苦労様」が目下に対して使う言葉だと、ここまで浸透している以上、会社では上司に対し「お疲れ様でした」と言っておくのがいいだろう、と締めくくっていた。ところで、中学・高校の部活では「ご苦労様でしたー」と先輩・同期・後輩問わず使っていたが、まったく違和感がなかった。上司に対しても「ご苦労様でございました」なら全然失礼じゃないような気がする。少なくとも「お疲れ様!」より丁寧だと思う。人が「お疲れ様です」と挨拶しているのに「は〜い、お疲れ様」はなんかなぁ…これなら「ご苦労様です」のほうがよほどいい。当たり前と思っていることでも実はそうではないのだといういい例でした。
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2011年07月29日

「正しい殺人はあるのか?」サンデル教授の哲学教室

先々週海で泳いだ帰り、久しぶりに哲学館に寄ってみた。涼しい館内の図書室で、サンデル教授の『ハーバード白熱教室』を読み始めた。のっけから「殺人に正義はあるのか」だった。その日すぐに書店で本を買い求めて続きを読んだ。集中できるのは1時間が限度なので、なかなか進まないが、講義のすすめかたがとても魅力的ではまってしまう。サンデル教授が最初に警告を発しているが、哲学は実生活に害を及ぼす。今まで当たり前と思っていたことが当たり前ではなく、疑問を抱くようになると日常生活のすべてが正しくないように思える。正義について考えるための最初の話。5人の命を救うために1人の命を犠牲にすることは正しいか。ほとんどの人が正しいとした。次に少し条件を変えてみた。すると今度はたとえ5人の命を救うためであろうと1人の命を犠牲にするのは正しくない。絶対間違っているという結論になった。このようにして、なぜそうなのかということを歴史上の哲学者の考えを例にとりながら考えていく。社会問題を論じるときも、職場で仕事について議論するときも、なんかいつも人から借りてきたような考えを、あたかも自分はそう考えているというふうに思い込んでしまっている。なぜそう思うのか?そのことを説明してみよといわれたら、実のところなぜそう思うのかわからない。なんとなくというところか。サンデル教授は学生の考えについて、なぜ?そう思う根拠は?さっきの意見と違うが、その違いがどこからくるのか説明してほしいというふうに、なんとなくなどという答えは許さない。なかなか読みすすめることができずにもどかしいが、一夏はこれで持ちそうだ。ところで、殺人について正義の有無を問うとき必ず、生きねばならない、生きるためには仕方がなかったという理由がでてくる。さて、生きることは義務なのだろうか?憲法で権利は保障されているが、納税や勤労のように義務であるとはどこにも定義されていない。義務でもないのに生きるために他者の命を奪うのは正しいことなのだろうか?
上巻の半分しかいっていないが、下巻はすでに買ってある。どんな結末が待っているのだろう?
posted by みょうみょう at 15:56| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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