2011年07月31日

これって、セクハラではないか?

老人ホームに勤務している。要介護度の高い重度の人が多いせいか、利用者同士の色恋沙汰や、艶のある話などはほとんどない。だが、ばあちゃんたちの「女」の部分を感じることはある。年を取っても女は女、やはり男に対しては女とは違う感情を持っている。排泄介助や入浴介助をしてもらっていて、恥ずかしい部分をすでに見られてはいても、イケメン職員に対しては目が潤んでいたり、ポーっとした顔で眺めていたりする。わがままなことを言ってみたりもする。「よっ、色男!」とヤジをとばしたりもする。つまり、カッコいい男を前にして舞い上がり、はしゃいでいるのだ。そういう利用者は数少ない「会話のできる人」なので、男性職員のほうも手持ち無沙汰なときには、相手になることで間が持つので、ついつい調子に乗って悪乗りしたり、かまいすぎたりする。その結果、「自分の都合の悪いときに」訴えが多くなり、あの人最近わがままがひどいとか、トイレ行き過ぎなどと文句を言うことになるのだが…私が勤務する特養は男性の比率が高く(特に私の担当フロアは)、このあいだ遅番で出勤したら、スタッフがみんな男で、一瞬精神病院かと思った。しかも全員ある女性利用者を取り囲んで、わあわあ騒いでいた。その利用者が男性職員を相手に、ちょっと卑猥なことを言ったりして(実は言わせている)、それに対して、ゲラゲラ笑ったり、そりゃまずいよ〜などと言って困ったフリをしてみせたり。男性職員みながそうではないのだが、勤務年数の長いベテランの職員がそういうタイプなので、仕方なくのっている人もいれば、合わせておくほうが得と判断してのってる人もいるし、何も考えずにのってる人もいる。あまりにもバカらしい光景である。その女性利用者は、自分から卑猥なことを言う人ではない。ただ相手に影響されやすいところがある。だからこそ介護者は気をつけねばいけないのだが…まわりの人間がみな自分を見てウケている、楽しそうにしている。皆が自分に注目している、自分の言動に注目している、そのことが嬉しいだけなのだと思う。だが、その言動がエスカレートしてきているのが気になる。フロアの責任者(年配の女性)が退職することで、ますますモラルが低下すると思うとゾッとする。逃げ時かもしれない…
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2011年07月28日

新人介護士さんようこそ。これが世に悪名高い介護業界です。

介護の仕事をはじめたばかりの人のブログをみつけた。私のカイゴブログの読者になってくれていたのである。まだ仕事をはじめて一週間かそこらという新人介護士さんである。驚きの連続らしく、ブログには正直な思いがつづってある。非常に新鮮である。保育士の仕事を経験した後に介護業界に入り、今では5年勤務の「ベテラン」である私は、新人さんに比べると身も心も汚れた、すれきった人間である。当たり前のことが当たり前の感性で書かれており、その純粋さ、まともさに目がくらみそうである。どんよりと曇った目の人間には、真昼の太陽のようにまぶしく直視できないくらいだ。私にはこんな時代があっただろか?あったような気もするが、最初っからひねてたような気もする。でも疑問に思うことも多かったはずだ。なのに驚くくらい早く慣れてしまった。?マークの期間は本当に短かった。私は仕事が長続きせず、それまでは3年半が最長だった。今の5年というのは奇跡的な長さである。予定としてはまだ1年はこの仕事を続けるつもりである。なんでか?答えはラクだから。いろんな仕事を経験したけど介護の仕事は一番ラクである。私が勤務する特養ではそうなのだ。ラクなのだ。働く人間が辞めたくなくなるほどラクということは、利用者にとっては厳しい環境ということだ。高齢者は我慢強いのだろうか、あまり文句を言う人はいない。人に迷惑をかけているから、お荷物で早く死ねばいいと思ってるのだろうか。口ではそう言う人が多い。そんなことを言わせている介護士など下の下の下である。新人介護士さんが今の気持をいつまで持ち続けられるのか、そんな意地の悪いことをコメントに書いてしまった。自分がすでに失ってしまった、あるいは最初から持ち合わせていないものを持っているので、負け惜しみを言っているのである。新人さん恐るべし。
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2011年06月30日

介護と看護はロンパリか?

老人ホームに勤務している。直接処遇職員には介護士と看護師がいる。仕事内容はほぼ完全に分かれている。痰の吸引や経官栄養の注入、摘便(肛門に指を突っ込んで便をかきだすことです)などを介護士がすることはあっても、看護師がオムツ交換や食事介助をすることなどはほとんどない。以前3歳未満の子どもばかりいる乳児院(赤ちゃん専門の児童養護施設)で保育士として働いていたときと全く反対である。乳児院では、そもそもユニフォームがなく、保育士も看護師も私服にエプロンをつけていただけである。はたから見たら誰が保育士で誰が看護師かなどわからない。保育士と看護師の仕事の区別は全くといっていいほどなかった。保育士であっても子どもの受診に付き添い、薬の管理をするし、看護師であっても「保育」に関すること(あそび全般)をやる。おむつ交換、食事介助は言うまでもない。なので老人ホームに勤務して一番驚いたのは職種によって仕事が完全に分離されていることだ。老人は医療ニーズが高いから介護士には無理なこともある、そう思うだろうか。だが乳幼児だって同じだ。死亡が許されないという点では、老人よりはるかに医療ニーズは高い。乳幼児の死亡率は発展途上国や紛争地帯で高いのはもちろんだが、先進国でだって低くはないのだ。日本が極めて低いだけだ。抵抗力のない子どもは老人同様にちょっとしたことで死んでしまうのだ。私は保育の仕事が先だったので、介護と看護がこれほどまでに分離していることにどうしても馴染めない。仕事内容が分離していることで、医療に関することは全て看護師に任せる、看護師の指示に従ってさえいればよい、そんな考えが横行しているように思う。指示どおりにやりました、だから自分には責任はありません。というかんじだ。分離しているので連絡もスムーズにいかず、介護職は担当するフロアの利用者の容態もよくわからないでいる。職種が違うのだから仕事内容が異なって当たり前と思う人もいるかもしれないが、それは当たり前で、その上で、ということだ。とにかく今の職場の役割固定はあまりにもやりにくい。
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2011年06月26日

職員間に深く浸透している流れ作業と乱暴な言葉や態度

昨日は夜勤であった。(老人ホーム勤務)フリーといって、各フロアを巡回し補助的な仕事をする勤務に当たっていた。夕食介助でとあるフロアに入ったとき、20代の男性介護職員の、利用者に対する言葉や態度に気分が暗くなった。ちょうど配膳時であった。ある男性利用者がトイレに行きたいと訴え立ち上がった。男性職員は「座って」「後で」「いいから座って」と手で押すように利用者を座らせていた。実はこの利用者は歩行不安定であるにもかかわらず、5分おきにトイレに行く人である。昨夜も夜中の12時まで頻回にトイレに行っていたということだ。日中も同様である。職員皆がそうとうイライラしていたようだ。態度が悪くなるのもわからないではない。だが、私が危惧したのは、男性職員がそういう態度を隠すことなく、取り繕うこともなく、当たり前のようにしていたことだ。隠すことや取り繕うことがいいわけはないが、それさえしなくなるということはもっと悪いのではないか。そのときは日勤者が残っていたし、遅番勤務者だっていたのだ。だが、そういう態度を咎める人はいなかったし、配膳やトイレ誘導を手伝うということもなかった。男性利用者があまりにも立ち上がるので私がトイレに付き添おうとすると、「いいですよ!俺やりますから」と言うのである。私に割り当てられている仕事はある利用者の食事介助である。私が配膳を手伝おうとするといつも「配膳はいいんでその人の食介して下さい、時間かかるんで」と言われる。フリーという勤務に限らず職員の仕事はかなり固定されている。ある程度の固定は必要だが、突発的なことが「いつも」起こるのが介護現場である。固定された仕事しかしないとなると、「突発的なことをやらかす利用者は手のかかる人、自分の仕事の邪魔をする人」となってしまう。固定された仕事を滞りなくこなすことが求められるので、全ては流れ作業となる。流れを止める利用者は排除される。(強い薬の服用、精神科受診、拘束など)職員間に深く浸透している流れ作業と乱暴な言葉や態度。改善の余地はあるのか…
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2011年06月24日

介護現場における職員の服装について

 ある介護の掲示板で介護職員の服装と喫煙について議論されている。今回は服装について書きたいと思う。掲示板では、接客業なのだから服装には気を使うべきというものや(通勤着も含む)、通勤着にまでとやかく言うのはおかしい、服装は自由であるべしなど、色々意見が出ている。利用者さんに対する言葉遣いも議論は白熱していたが、服装の場合、範囲がさらに広がり収集がつかなくなるように思う。この手の議論を見るにつけ思うのは、型とか枠がなく自由であるというのは、成熟した社会であればいい結果を生むが、そうでなければ混乱を引き起こすだけだということだ。日本の社会は未成熟であるが故に、規制が解き放たれると暴走してしまう。これは服装に限ったことではない。自由になった結果起き得ることに対する責任という意識もないままに、自由、自由と叫び自由を手に入れたところで、自由を持て余し、あるいは自由に縛られるという皮肉なことが起きてしまう。
 介護現場における服装については、ある程度の規制をかけたほうがいいと思う。完全に自由にするということは、職員の良識を信じるということであり、立派な心がけではあるが、事業主は自分の甘さに泣かねばならなくなるだろう。通勤着は基本的には自由でよいと思うが、その自由には当然ながら責任が科せられる。事業主としての責任を問われるような格好なら注意すべきであると思う。
 私が以前ユニット型の特養に勤務していたときは、ユニフォームがなく服装は自由であった。それほど非常識な服装の職員はいなかったが、上層部からは、あまりにボロボロのものを着るな、ズボンはずり下げてはくな、サンダルはかかとをふむななど、よく注意が来ていた。極めて非常識というのではないが、ケース会議のときに、50代半ばの女性ケアマネが(その日は公休日であった)7分丈のパンツに襟ぐりの大きく開いたカットソーを着て出席しており、違和感を覚えた。相談員や栄養士などは仕事中であるため、シャツにネクタイなどそれらしい服装をしていた。家族だって会議だというので、それなりに気を使っている。ケアマネの服装は「おしゃれ」ではあったが、相手に対する配慮が見られないと思った。自由というのはこういうことを引き起こしてしまうのだ。そのケアマネが、これが私のポリシーと言うならそれでもいい。その行動に責任を持てばいいのだ。(面倒くさいからやめたほうがいいと思うが)だが、おそらくその意識はないであろう。海外ではニュースキャスターもラフな格好をしているとか反論はあろうが、それこそ猿真似というものである。
posted by みょうみょう at 08:33| Comment(0) | 介護の仕事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年06月02日

忘れてしまえばそれまで、ではない

久しぶりに海を見た。夕陽が水面に映りとてもきれいだった。立ち去りがたく、しばらくボンヤリと眺めていた。放浪の画家・山下清は気に入った景色を何時間も何日間も見続け、心に焼き付けて貼り絵を制作したそうだ。私はつい何でも写メやデジカメで撮ってしまいたくなるが、レンズを通さないと残せないというのは便利なようで不便なものだ。たとえ忘れても、再生することはできなくても、自分の目で見たことは確かなのだ。認知症の人が、親しい人の名前や顔、自分が誰なのかさえわからなくなってしまうことを悲劇のように思っていたが、それは本当に不幸な悲しいことなのかなと、少し疑問に思いだした。忘れるってそんなにいけないことなのかな。いろいろ経験したのに最後には全てを忘れてしまうと、経験したことが意味のないことになり、それらは虚しいことになってしまうのだろうか。赤ちゃんって自分じゃなにひとつできなくて、全部誰かにしてもらってるのに、そのことを全然覚えていないよね。赤ちゃんにとっても、世話をした人にとってもそれは、意味のない虚しいことなのかな。覚えていないこと、忘れてしまったことは何の価値もないのだろうか。老人介護の仕事で虚しさを感じる人は多いかもしれない。いっしょうけんめいお世話しているのに、何度自分の名前を教えても覚えてくれない、感謝の言葉がない、してもらって当然と思われている等々の不満があるのではないだろうか。私自身そんな気持が全くないといえばウソになる。だが、感謝されないからやる気が失せる、名前を覚えてくれないから誰でもいいというのは明らかに違うと思う。ここのところを勘違いしては、仕事が立ち行かなくなってしまう。日々鬱々愚痴ばかりこぼしているが、目を背けずこういうことをとことん考えてみないといけない。
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誇りも自信もなく、何が専門職なのか

夕方自転車でイオンに買い物に行く途中、急に気が変わり海に向かった。今年初めて見る海である。波は穏やかで静かな音がしていた。海鳥も人の姿もほとんどなかった。雲の合間から見える太陽の日差しはやわらかで、ぼんやりするにはもってこいだった。防波堤に座って波の音を聞いているといろんな思いが頭をよぎる。老人ホームでの夜勤を終えた後だったので、自分の40年後の姿や生活を想像してみた。どうなっているかなんてわかりっこないのだけど、もしも自分が今勤務している老人ホームの利用者だったならと想像すると、とてもわびしくさびしい気持になった。置物のようにひとつところに置かれ、植物のようにただ待っているだけ。思いがないわけではないのだが、それを表にだすことの煩わしさを考えるとあきらめてしまう。何をするにも人の手を借りねばならず、しかし、助けてくれるはずの人たちは忙しそうにしていて、自分と目を合わせようとはしない。ぼんやりまどろんでいると突然体が動き、宙に浮く。ドスン、ガチャ、バサッ、ガタガタ。体が激しく動く。だが何が起こったのかわからない。誰も自分に話しかけはしない。自分を動かしている誰かは何かを言っている。自分の名前を呼んでいるらしいが、目が合わないので、自分に言っているのかわからない。そもそも何を言っているのか全くわからない。たまに意味がわかり答えようとするが、声が出るまえに誰もいなくなってしまう。今がいつなんどきなのか、自分はここで何をしているのか、いつまでこうしているのか…ほんのつかの間でもいいから心の通ったやりとりができたなら、いつ死んでも悔いはないのだが…何が間違っていたのだろうか、自分の何が悪かったのだろうか。潮風ですっかり体が冷え切ってしまった。40年後施設で今日のことを思い出すことがあるだろうか。
posted by みょうみょう at 21:29| Comment(0) | 介護の仕事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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