2011年10月12日

浴槽掃除が夫婦円満の秘訣?!

『カビキラー』などでおなじみの住宅用洗剤メーカー、ジョンソン株式会社の調査によると、夫がやってくれると嬉しい家事の第1位は、“浴槽の掃除”(39.3%)だという結果が出ていました。

お風呂の掃除は、湯垢やカビをゴシゴシこすって落とすことなどがけっこう重労働なので、男性にやってもらうと本当に助かりますよね。

実際に夫が浴室掃除を担当している割合は21.5%。リビング・寝室の掃除が7.5%、トイレ掃除が9.5%であるのに比べると2倍以上の割合を占めています。

また、この調査では全国7エリアでの家事の分担についても調査しています。女性が最もやって欲しいと思っている“浴槽の掃除”を、夫が担当している割合が最も多かったのが近畿地方(22.6%)でした。

そして、自分の家庭は円満だと思うと答えたのも自分はパートナーに満足していると答えたのも近畿地方が1位だったのです!

この結果により、ジョンソンでは「夫婦円満の秘訣は浴槽掃除ではないか」と分析しています。

このデータから浴槽掃除に夫婦円満の秘訣があるという結論になるというのは納得できますが、さらに突っ込んで考えてみると、“妻がやって欲しいと思っていることを、夫がきちんとやってくれると夫婦円満につながる”と言えるのではないでしょうか。

妻を気遣って率先してやってくれているのか、妻がきちんと「やって欲しい」と主張して夫がやっているのかまではわかりませんが、どちらにしろ、関西の男性は妻が一番やって欲しいと思っていることをやってくれるのには変わりありませんよね。

ちなみに、2番目に浴槽掃除が夫の分担だと答えたのは関東の男性。そして、最も浴槽掃除をやってくれないのは中国地方の男性でした。

亭主関白で家事をしないと思われがちな九州の男性は意外なことに4位でしたよ。

幸せな家庭を作りたいと思うなら、もしかしたら関西人の男性を夫にするのがよいかもしれませんね!

【参考】

※ジョンソン株式会社


ほほーっ、なるほど。風呂掃除って面倒くさいもんね。わが家の場合、浴槽だけじゃなくて、風呂掃除はだんなの仕事となっている。結婚して以来20年間ずーっとそうだ。私が望んでるわけじゃないし、だんなが気を利かせてやってるわけでもない。私的にはこれでいいかって思ってるのに、だんなには私の掃除が手抜きというか、全く掃除に値しないと思うようで、必ずやり直している。なので、風呂はだんなに任せている。夫婦円満もへちまもない。私がきれい好きで几帳面なら、だんなの風呂掃除は夫婦円満の秘訣になるんだろうけど。それにしても、ジョンソンは面白いこと調べてるね。
posted by みょうみょう at 22:34| Comment(0) | 新聞・雑誌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

TPPは農業(農協)だけの問題なのか?

環太平洋経済連携協定(TPP)について。

私が環太平洋経済連携協定(TPP)という言葉を知ったのは1年ほど前のことである。いつも野菜を買うJAに「環太平洋経済連携協定(TPP)絶対反対!日本の農業を守れ!」とかいう横断幕がでかでかとかかっていたのだ。ああ、農業に関することか、とあまり興味もなく毎回眺めていた。昨年末あたりからTPP,TPPと騒いでいたようだが、震災でそれどころじゃなくなったのか、ずっと話題に上っていなかった。それがここ最近またTPP,TPPと騒がしい。なにやら、復興にはTPP締結が不可欠であるといった論調だ。増税といい、TPPといい、震災復興はいいように使われている。TPPに関しては、反対派が書いた本を数冊読んでみた。どの本も趣旨は同じだ。TPP締結は、農業のみならず、医療、介護、金融などあらゆる分野に影響を及ぼし、日本の雇用体系が大きく揺らぐ恐れがあるということだ。米国主導で、米国の思惑を押し付けられることも懸念されている。一方TPP推進派のほうは、日本の農業は遅れている、TPPに参加して世界に門扉を開くべきだと、その一点のみをやたらに強調している。TPPに参加しなければ日本の農業の未来はないといった具合だ。農業以外の分野への言及はまったくない。これがTPP論争の特徴ではないか。ところで、もしもTPPが締結されたなら、外国人介護士・看護師の問題はクリアできるのではないか。例えば入浴などは完全アウトソーシングとなり、入浴請負会社は外国人介護士を雇用できる。介護施設は監督係りの職員のみを入浴に従事させればそれでよい。オムツ交換なども外国人介護士でいける。そもそも日本人にしかできないことではない。日本人介護士は管理・監督だけでよくなる。その人たちの給料は今よりも多くしないといけない。管理・監督は誰にでもできるわけじゃないからね。日本人の雇用は大きく失われるが、起業のチャンスでもある。一部の人間だけがビジネスチャンスを掴み、多くの人間が路頭に迷うことになるが、それがTPP推進派の望むことなのだろう。介護士はTPPなんぞなんの興味も関心もないだろうけど。TPP反対の急先鋒である中野剛志・京都大学准教授はがんばっているが、はたしてどうなることか。
posted by みょうみょう at 22:22| Comment(0) | ニュース | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

旅に出たい出たい出たい!!

先日の夜勤入りのとき、無性に旅に出たくなった。この1年間、県外に出ていない。家と仕事場の往復の1年間であった。嫌だ嫌だと思いながら仕事をしていた。嫌だから余計辞めずにがんばってやろうと思った。だが、考えを改め、半年〜1年間を前倒しにして辞めることを決意した。一旦そう決めたら、もう仕事に身が入らずに困る。青春18切符の旅は残すところ九州と北海道だけなのだが、最後に電車の旅に出かけて以来3年だ。もーーーーーーーっ、ガマンの限界だ。行きたい行きたい行きたい!!1年前に名古屋にバス旅行に行ったのが大昔のようだ。広島くんだりまで研修に行ったのもはるか大昔のことのようだ。資格試験だなんだと忙しかったのもあるが、行こうという気も起こらなかった。辞めると決めた今、もう待っていられないくらいだ。出走前の競走馬のごとく、退職が待ち遠しい。有給をぶんどってでも行きたいくらいだ。介護業界ではあああ、3日以上の休みはまず取れないというが、これは仕事の効率や学ぶということを考えると、よくない。誰もそんなふうに思ってないみたいだが。辞めずにリフレッシュ休暇が取れたら、5〜10年とくすぶってる古参介護士の仕事の質が上がる、かもしれない。とにかく私は行くからね!!
posted by みょうみょう at 21:49| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

10年介護の仕事をしたならオムツ交換の回数は…

こども一人あたりのオムツ交換の回数は約6000回だそうだ。面倒と思うことでも、いつかは終わりがくる、期間限定であるということなのだが、正直この回数には、有限よりも無限を感じてしまった。私は老人ホームに勤務しているのだが、夜勤の時のオムツ交換は30回以上である。職員の中には、最初にオムツを全て積上げて、徐々に減っていくのが嬉しいという人がいる。私はダメだ。積みあがったオムツを見ると、もうそれだけでモチベーションが下がる。先のことは考えないようにしないと夜勤そのものが嫌になる。もうすでに嫌になっているが…目の前の一歩だけを見て進むタイプである。ところで、子どものオムツ交換の回数が6000回なら、寝たきり老人のオムツ交換はいったいどれくらいになるのだろうか。わからないところが恐ろしい。1年なら1500回〜2000回だろうし、(子どもに比べると交換回数はずっと少ない)5年ならその5倍で7500回〜1万回か。10年なら…考えたくない!!やはり有限じゃないとダメだ!!高齢者の介護はいつ終るのかわからず、希望が持てないことが、介護者にとって大きなストレスとなっている。家族の介護であれば無償だ。どんな気持で毎日を過ごしているのだろうか…介護士の仕事は有償だが、いつ終るかわからないという点では同じだ。10年以上介護の仕事をしている人がいるが、正直なぜできるのかわからない。介護士は10年経っても仕事内容は変らない。名前ばかりの役職がついたところで、やることは同じなのだ。世間では介護士のことを、立派な心がけだ、なくてはならない大切な仕事だ、頭が下がるなどと言うが、それならなぜあなたがしないのか、なぜ高い報酬を支払わないとかと言いたい…近頃ちょっと疲れ気味で、仕事に嫌気がさしている介護士の愚痴である。
posted by みょうみょう at 21:31| Comment(0) | 介護の愚痴 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

これはとんでもないことなのか?

「アルファベットの読み方」学ぶ日本橋学館大学 その意図を説明

漫画の世界の話ではない。「本物の“バカ田大学”が日本にあった」――と話題になっている。そんなありがたくない評価を受けているのが、創立11年目の私立大学・日本橋学館大学だ。キャンパスがあるのは東京・日本橋……ではなく、千葉・柏市。学生数は463人だ。

有名になった発端は、同大がHPで公開するシラバス(学習計画概要)だった。入学初年度の履修科目「基礎力リテラシー」には、驚くべき内容が記されている。

まずは英語。〈英語を好きになる〉と題した全15回(前期)の授業内容は、「授業の進め方」で始まり、第2回は「アルファベットの書き方・読み方」、第3回が「辞書の構成・辞書の使い方」……。そして第10回目にようやく「be動詞」を学ぶことになる。

「中学生かよ!」と思わずツッコミを入れたくなるが、まさにその通り。使用する教材は中学1〜3年生の参考書である。〈高校までの算数・数学をみなおし、数学的思考を身につける〉とした数学では、「小数の計算 分数の計算」、「円の面積」……。

そして日本語会話の講義は、第2回「クラスで自己紹介する」に続いて、第3回は「目上の人を○○に誘う」。となれば……、第4回は「目上の人の誘いを断る」。さながらマナー教室のようである。

シラバスだけではない。同大HPによると、〈初年次教育〉の目指すものとして、授業の受け方、ノートの取り方、などとある。まずは心構えということか。全学科共通のゼミでは、「親睦球技大会(仲間と汗を流そう)」、「学生生活マナー(授業の受け方)」などと並んで、「日本橋学館クイズ(大学を知ろう)」というものもある。ゼミで学ぶ大学生にクイズが出題されてしまうのである。

こうした教育内容が明らかになったために、大学教育に関するネット掲示板などでは、「中学に入り直した方がいい」「文科省は大学免許を取り消すべき」などと批判の嵐。大手予備校によれば同大の偏差値は40なのに、「もはや測定不能」とまでからかわれている。

しかし、いまや2人に1人が大卒という時代。ひどいところは「学級崩壊」が発生し、学力低下どころか「学ぶ意欲がない学生ばかり」というのが現実だ。学力も悲惨なもので、ある大学では「九九の計算に全問正解したのが受講者の半数以下」だったという。

日本橋学館大学のカリキュラムは、そうした現実を正面から受け止めたものであるという。同大学の教授で、講義内容を決定する教務委員会の委員長を務める塩澤寛樹氏が説明する。

「基礎力リテラシーは必修科目ではなく、入学後のテストで基礎学力に欠けると見なした学生を対象に履修させる補習的な科目で、約6割が受講します。確かに入学生の中には、アルファベットを全部書けない学生もいる。

英語が分からない以前に、嫌いだと拒絶する学生もいます。そうした学生に大学レベルの英語を詰め込んでも意味がありません。就職時期には少なくとも一般教養ある学生を育てたいとの思いから、シラバスを公開した。これは本学の覚悟の現われです」

※週刊ポスト2011年10月21日号


これは驚くべきことなのだろうか。憤慨すべきことなのだろうか。とんでもないことなのだろうか。もしや知る人ぞ知ることなのではないか…このことを知らずに憤慨している人は、実はバカ田大学の学生と同じくらいバカなのではないか…と恐ろしい想像をしてしまう。マークス寿子という人がいる。英国貴族と結婚し、マークス&スペンサーとかいう食料品会社の社長婦人だったらしい。英国素晴らしい、日本ダメみたいな本をいっぱい書いている。この寿子さんが離婚し、日本のバカ大学で教鞭をとっているそうだ。本人がそう言っているのだ。(もちろんバカ大学じゃなくて…偏差値が非常に低いというふうにだが)その学校の生徒のことを書いた本を前に読んだことがあるのだが、本当に授業のレベルは低いそうだ。勉強のできない生徒は生活能力も低く、マナーも最低らしく、英国留学させると、ホストファミリーから苦情がわんさかくるそうだ。寿子さんはそんなバカ学生をなんとか少しでもまともな社会人として世に送り出したいと思い、奮闘している。バカを少しでもまともに…それが私たちの務めである、と。(つまり、偏差値の低い大学の教員の務めなのだと…)2人に1人が大卒の時代というなら、このような大学はけっして珍しくはないと考えるのが妥当である。大学教育を受ける者がそんなバカであるはずはない!と憤慨するご年配の方はいるだろうが、でも、半分の人間が優秀ということはあり得ない。優秀な人間はピラミッドの頂点にごく少数しかいないのは真理である。大学が少ない時代には、大学生はみな優秀だったのだ。優秀な人間しか入学を許されなかったのだ。つ・ま・り、学校を作りすぎたってわけだ。誰だ!?こんなにいっぱい学校作る許可を出したのは!?
posted by みょうみょう at 20:42| Comment(0) | 新聞・雑誌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

私の人生はまさに「雪山の寒苦鳥」だ

仏典には「雪山の寒苦鳥(せっせんのかんくちょう)」という説話が説かれている。雪山に「寒苦鳥」という鳥がいた。雪山の夜は極寒で、寒苦鳥は「夜が明けたら寒さに耐えられるように巣を作ろう」と鳴いていた。ところが、夜が明け、温かくなると、寒苦鳥は再び眠りこけ、巣を作る決意を忘れてしまう。その結果、寒苦鳥はずと寒さに苦しみ続けた。これは仏法に巡りあえたにもかかわらず、表面的な利益に心を奪われ、仏道修行をおろそかにしてしまう人間の性質を戒めている説話である。

                                  聖教新聞・御書に見る仏教説話より


この説話は仏道修行以外にもいろいろなことに当てはめることができる。私がこの「雪山の寒苦鳥」という言葉をはじめて耳にしたのは、高校生の頃である。当時時々遊んでくれていた大学生が、自分の勉強だか禁煙に関してだか忘れたが、目標を達成できないことに対して、自嘲気味に言ったのだ。その後の私の人生が寒苦鳥そのものになるなんて思いもしなかったが。寒苦鳥から抜け出すためには、つらい状況のときこそ敢えてがんばるしかないのだ。ラクになったら、今度こそとなるのが寒苦鳥なのだから。こやって書きながらも、やるべきことを先延ばしにしている自分である…
posted by みょうみょう at 20:11| Comment(0) | 新聞・雑誌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

現状に甘んじるのにも飽きてきた

古本屋で高城剛の『「ひきこもり国家」日本』という新書をみつけて読んでみた。4年ほど前に出版されたものだ。私は高城剛といえば、沢尻エリカのだんなという認識しかなかったのだが、なんか色々活躍しているようだ。(略歴にいろんなのがのってたが、よくわからなかった…)本の内容は「日本はグローバリゼーションに乗り遅れている」「日本はこの20年ほど、全く世界に目を向けず引きこもっている」「地球規模で物事が動いているのに、日本は身内だけでこせこせやっている」といったもので、最初はなんか不愉快であったが、読み進むうち、10代の頃をなつかしく思い出してしまった。私は小さい頃から、海の向こうには何があるのかとても興味があった。海水浴へ行くたびに、海の向こうに思いを馳せた。成長するにつれ、日本は島国で海に囲まれており、海の向こうには外国があり、外国人が住んでいるということがわかり、その外国のことが知りたくてたまらなくなった。外国人ってどんな人たちなんだろう?会ってみたい、交流してみたいと強く思うようになった。海外ペンパルを紹介する機関があり、何人か紹介してもらった。イタリア、タイ、ガーナ、中国などいくつかの国のペンパルがいたが、長く文通を続けたのは(高校卒業まで続いた)シンガポールの中国系の女の子だった。英語で何枚も書いてくるので、いっしょうけんめい英語を勉強した。シンガポールについて勉強もした。だが、高校を卒業して、その子と疎遠になり、英語も全く使わなくなると、いつしか外国のことなど忘れてしまっていた。時代はちょうどバブルがはじけ、失われた10年が始まっていた。(今では失われた20年だが)物価はどんどん安くなっていった。チェーン店が増え、安い外食店が当たり前になった。服なども、バブルの時代のデザイナーズブランドが嘘のように、こじゃれたかわいいものが安く出回るようになった。そんな時代をありがたく思っていた。コーヒーは200円ぐらいで飲めるし、服はユニクロなどで1000円〜3000円ほどで買えるし、ホテルも安く泊まれる。物価がこんなだから、給料が安いこともあまり苦にはならなかった。家から出ない生活、小さな範囲での生活が心地よかった。10代の頃の外国へのあこがれなんて嘘のように、現状に満足していた。こんな生活に疑問を感じだしたのはほんの数年前のことだ。気づけば、お店はイオンなどのスーパーしかなく、なんかちょっといいものが欲しいと思っても、安物しかないのだ。デパートに行っても今はスーパーとあまり変らない。悪夢から覚めたように愕然とした。情報が氾濫しているこの世の中で、情報から目を背け、ただただ現状をよしとしていた。焦ってはみても空回り…そんな状態で、この本を読み、外国に強くあこがれた10代の頃を一気に思い出した。なんでこんなふうになっちゃったんだろ?ぼんやり考えてみてもわからない。ただ思うのは、「知りたい」ということだ。今の状況に甘んじているのは嫌だ。脱出したい。強くそう思う。さて、始めるか。
posted by みょうみょう at 19:49| Comment(0) | こんなこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

言葉は誤解を生むが、黙っていては理解は生まれない

聖教新聞・「言葉の誤解を避けるには」より

言葉を一言話したり書いたりすれば、そこにはすでに誤解の芽がある。たくさん話したり書いたりすれば、誤解されるおそれはそれだけ大きくなる。これは言語学の基本中の基本である。でも会話のないところに理解が生まれないのも、また事実。言葉の誤解は完全には避けられないものだが、だからと言って、黙っているだけでは問題の解決にはならない。
                          日本語学者・飯間浩明


いっしょうけんめい説明したのに、全く理解してもらえない、それどころか誤解されるばかり…
そんなつもりで言ったんじゃないのに、完全に誤解されて、関係がギクシャクしてしまった…
言い方がまずかったのかもしれない、でもどういうふうに言ったらよかったのだろう…
こんな経験をすると、黙っていたほうがマシなんて思ってしまいがちだ。ほんとに黙っているならまだしも、不満は残るので、本人には言わずに他の人に愚痴ったら余計こじれて関係がおかしくなったなんてことも。気持を伝えるには、言葉以外のコミュニケーション手段も重要だ。だが、それはあくまでも言葉を補うもので、この人間社会では、言葉が命である。普段当たり前に使っている言葉でも、意思の疎通がうまくいかない場合、言葉の定義がお互いに異なることがある。そういったことは、やはり話してみないことにはわからない。言葉におけるコミュニケーションを放棄してしまうと、言葉を使ったとき以上の誤解が生じてしまう。それなのに、あきらめが先にきて、話しても無駄とばかりに会話を放棄したりする。面倒くさくても、相手にわかる言葉を選んで根気よく対話を重ねないと物事は前に進まないのだ。反省ならサルにでもできるが…
posted by みょうみょう at 19:07| Comment(0) | 新聞・雑誌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

なくしていたのは心の余裕

聖教新聞・名字の言より

仕事、育児、家事に追われ、「時間がない」が口癖だったある女性。あるとき、4歳の娘に言われた。「時間はどこでなくしたの?一緒に探すよ」ハッとした。落し物がみつからず、困っているように見えたのだろう。きっと笑顔も消え、知らず知らずのうちに心配をかけていたのかもしれない。なくしていたのは時間ではなく、心の余裕だった。以来、女性は「時間がない」という言葉を「充実しているわ」に置き換えるようにしたという。

私は「時間がない」という感覚こそあまりないが、「何かに追われている」「何かに急き立てられている」「手いっぱいでしんどい」という焦りのようなものはよく感じる。整理整頓が苦手なせいもあるが…(物だけではなく、人間関係なども)これも「心の余裕をなくしている」状態である。決心して机の上を片付けたり、ずっと先延ばしにしていたレポートなどを仕上げると、少し余裕が出てくるので、やる気の問題でもあるのだが。「心の余裕」などというものは、まわりの人にはどうすることもできない。家事や仕事、育児などは、どの程度を負担と感じるかは人それぞれだからだ。なので、意識してガス抜きのようなことをしないといけないのだろう。今日の午後、2歳の女の子と2時間ほど過ごした。実子としてわが家に迎える予定の子で、今は乳幼児施設にいる。さくらちゃんというのだが、この子と絵本を読んだり、絵を描いたり、おままごとをしたり、慣れるための大事な時間とはいえ、無駄な時間と言えなくもない。だが、この無駄な時間が今の私には必要な時間とも言える。ちょっと退屈で時間を持て余したりもするが、そんなときはちょっと席を外してみる。戻ってみたら、主人になついていた。ついさっきまではチラチラ見てただけなのに…なんだ、私がいなくても大丈夫なのか、とホッとすると同時に悔しくもなる。こんなかんじで、息抜きとなるのだ。さくらちゃんは、「心の余裕を保つ」ためのお薬みたいなものである。よいガス抜きとなっている。
posted by みょうみょう at 18:44| Comment(0) | こんなこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

災害時における自己責任

町の広報に、町民大学講座「金沢大地震にそなえよう」がのっていた。

石川県は津波による被害が想定されている地域。地震が起きてから数分で津波はやってくる。自分のところで大きな地震があったら、ニュースを見る前に逃げなくてはならない。指示されるのを待つのではなく、自分で考えなくてはならない。
自分たちが置かれている危険性、いざというとき何をしなければいけないかをわかっていれば、地震が起きたときに逃げることができる。知らなければ何もできないので、学ぶことが大事。情報や知識に基づいた学習が、いざというとき自分の命やまわりの人の命を救う。

地震は備えることで助かることができる。知恵と学びでカバーできることもある。

@ 自分の命は自分で守る(自助)
A 家族・近所で助け合う(共助)
B 行政機関による救助(公助)

阪神淡路大震災の結果から見ても、建物の下敷きになった人は基本的に自分の力で出てこなくてはならない。自分で出られない人は警察や消防の力を頼る。自分の力や隣近所の人の力で出られる人は、公の力を頼ってはいけない。少しでも多くの命を救うには、自力で出ることが大切。行政も被災するので、期待してはいけない。まずは生き埋めにならないことが最も重要。

                       講師:金沢大学人間社会学地域創造学類准教授・青木賢人

阪神淡路大震災では、それほど深刻な被害に遭ってない人も、権利として食物の配給などを主張し、しまいにはおにぎりなどが捨てられるようになったと聞いた。今日明日の食物に困らない人にとって、毎回毎回同じようなおにぎりにはすぐに飽きがきたようだ。多くの人が救助されないまま亡くなっていった一方でこういった事実もあるのだ。私たちはなにかというと、権利を主張しがちだ。税金を払っているのだから当然とばかりに。あるいは、知り合いや近所の人に頼るくらいならお金を出してサービスを受けたいとか、国や県や市がなんとかすべきとか。災害のことだけでなく、あらゆることにこういった傾向が見られる。地震などの災害時になれば、何百年に一度という惨事ならなおのこと、自治体は何をしてるんだ!?と公の力を頼っても生き残れない。自己責任という言葉は公の責任を免責するものではない。都合よく解釈されがちな言葉だけに、しっかりと自己責任の意味を考え全うしたい。
posted by みょうみょう at 12:32| Comment(0) | 地震 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

運動会といえばリレーでしょ!!

運動会の種目といえば「リレー」に決まっています。小学校まではかけっこを得意としていた私にとって、運動会のリレーは花形競技でした。脚は短いほうだったので、回転の速さでスピードを上げていました。全校生徒130人ぐらいの小さな学校だったので、運動場は狭くトラックは100メートルしかありませんでした。なので狭苦しいところで走るのや、せいぜい50メートル走が得意なのです。リレーも走る範囲は50メートルほどでした。私が小学生だったころは、まだバリバリ競争が盛んで、借り物競争や障害物競走、玉入れなどご愛嬌競技でも勝ち負けは重要で、負ければそーとー悔しかったです。リレーは最終種目で、得点が拮抗していれば逆転の大チャンスですから盛り上がらないわけがありません。特にアンカーはみなの期待をいっしんに背負ってますから、抜かれでもしようものなら、たとえそれが相手チームの選手でも同情しました。自分のチームが勝つことはもちろん嬉しいのだが、ラストで抜かれるということがどれほど屈辱か、自分もリレーの選手であっただけによ〜くわかっていました。リレーの選手とはチームの枠を越えて連帯感がありました。私はリレーで抜かれたことが一度だけあり、そんとき抜いた子の町内の人たちが、その子に対して太鼓を打ち鳴らして大きな拍手と声援を送っていたことを今でもありありと思い出します。私も悔しかったけど、私の町内の人もそーとー悔しかったと思います。かなわない相手がいることを実感したときでした。世のなかにはどれだけ努力してもできないことがあります。短距離競争なんてその代表です。悔しい悔しい、でも受け入れるしかない事実でした。白組と赤組しかなかったけど、運動会の後はしばらく友達関係もギクシャクしていました。負けたときには、大の仲良しの友だちが、勝ったチームのヤツというだけでくやしーーーくて面白くないのです。数日で元に戻りますが。競争心むき出しでがつがつしていた時代のなつかしい思い出です。
posted by みょうみょう at 11:15| Comment(0) | お・も・い・で | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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