2011年04月27日

女らしいことが恥ずかしくてできない女の子

中学生の頃、男っぽい友人がいた。同じ陸上部であった。私がブラブラタラタラとうだつのあがらない長距離をやっていたのに対し、その子は砲丸投げでいい成績を残していた。砲丸投げが得意なくらいであるから、体格はよい。性格もさっぱり男系である。その子の家に遊びに行くと、少年ジャンプや少年サンデー、少年マガジンなどの男の子向けのマンガ雑誌がいっぱいあり、部屋も男の子っぽかった。少女マンガとかには興味ないのかなと思い、聞いてみたところ、本屋でそれら女の子向けの本を買うのが恥ずかしいとのこと。私にしたらジャンプ買うほうがよっぽど恥ずかしいことだが…新鮮というか不思議であった。私には、そんな男みたいなこと恥ずかしくてできん!というようなことは平気で、女の子ならみんなするだろうというようなことは、恥ずかしくてできないようだった。この手の女の子というのはそれほど珍しくはない。中学、高校ぐらいまでわりといる。そういう子にとって、いかにも女の子〜〜というかんじの子は、苦手なようだ。フリフリの洋服を着て、髪は長く、ガキのくせに男に媚び、女の嫌なところを早くもかもし出している女の子は、嫌いとかムカつくというよりも、「苦手」なのだ。友人も、砲丸を飛ばす豪腕を持っていながら、ブリ子には頭が上がらない様子だった。私と一緒にブリ子の悪口は言うが、本人の前ではいい友達を演じていた。私はごく普通の女の子どもであったが、友人からは、おまえ素出さんかい〜〜、ぶりっ子しとるやろ〜と突っ込まれていた。たしかに私と友人の会話は中学男子そのものだったので、少女マンガを読んだり、その当時人気だったチェッカーズに夢中になってる私というのは、「作ってる」とかんじたかもしれない。だが、それだって私なのだ。ところで、友人は高校卒業後、婦警となった。警察勤めは似合っているが、婦警というのはいまひとつ…
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美人は3日で飽き、ブスは3日で慣れる

中学生の頃、同じ部活にすごくかわいい子がいた。新入生が勢揃いして話を聞くときがあった。何人もがズラーっと並ぶと容姿の差というのは一目瞭然で、私はその子のかわいさに見とれていた。うっわ、かわいい、超かわいい、マジかわいい!とまるで男のように興奮して、チラ見どころか、食い入るように眺めていた。後で、あんた私のことジロジロ見とったやろ?とその子に言われ、へへへ〜とごまかした。まさか、かわいいから見てたともいえないしな。部活が一緒なので、毎日顔を合わす。性格が面白いのですぐに仲良くなり、学校以外でもつるんで遊ぶ。するとどうしたことか、はじめの頃あれほどかわいいと思ったその子が、それほどかわいくかんじなくなったのだ。こいつ、ブスになったか?と怪しんだ。だが、かわいくないわけでもなく、かわいいのだが、それほどでもないといったかんじなのだ。首をかしげつついつしかそのことは忘れていった。それから数年後、高校生になり、近所のファミレスでバイトに明け暮れていた。ある日、高校を中退した女の子が新しく入ってきた。失礼な話ではあるが、ヘンな顔だな、と思った。インパクトのあるヘンな顔だったのだ。ところが、一緒に仕事をするうちに、それほどヘンとは思わなくなった。おかしいな…こいつかわいくなったか?と訝しく思った。そこで、ビビビビビーーーーッとひらめいた。わかった!慣れたんだ、と思った。つまりあれだ。ブスは3日で慣れるし、美人は3日で飽きるのだ。中学時代、超かわいい女の子が日がたつにつれ、かわいくなくなっていったのは、そのせいなんだ。納得。(これは単なる個人的意見です。不愉快になった人すみません…)超かわいいあの子はみ・ゆ・き。40歳、立派なおばはんである。どんな顔になってるかな…
posted by みょうみょう at 10:47| Comment(0) | お・も・い・で | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ゴールデンってほどのもんですかい

もうすぐゴールデンウィークである。大型連休とも言われているらしい。世間の大方の人はこの時期仕事が休みで、家族で出掛けるらしい。私は小さい頃からこのての休暇にはあまり縁がなかった。家が兼業農家だったため、田植えや畑の手伝いが多かった。1日くらい空きはあったが、家族揃ってどこかへ出掛けるという習慣が、我家にはなかった。30年前の田舎では、それが普通であった。デパートや遊園地に出掛けるちょっとハイカラな人たちもいて、羨ましかった。うちは、お父さんが一人でフラッと、パチンコなどに行ってしまい、残された私たちはつまらなかった。中学、高校時代は部活やアルバイトで忙しく、遊んだ覚えがない。社会人になってからは、サービス業が多く、遊ぶ客の対応で忙しかった。混み合った店内で長く待たされた挙句、オーダーミスで食べたいものが食べられなかったり、さらに待たされたりして、せっかくの休日を不機嫌で過ごさねばならない客を見ていると、仕事でよかったなどと思ったものだ。年に3回しかないまとまった休暇のひとつであるにもかかわらず、あまり楽しそうでもなく疲れた顔の人が多かった。お金と時間を使ってもったいないことをしてるなと思った。はじめて世間並みにゴールデンウィークを経験したときは、名古屋の水族館へ行き、あまりの混みように、二度といらん、こんな休暇と思った。それにしてもこのゴールデンウィークというネーミングどうにかならないか。大型連休というのもやめていただきたい。7〜10日の休暇が大型だのゴールドだのとはいじましい。自分がもらえないからひがんでるんだろうって?それもある。ふん!そのうち失業保険の給付をもらいながら長期バカンスを取るから!
posted by みょうみょう at 10:26| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年04月26日

なんでもかんでも人のせいにするな!

自分の感受性くらい

ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて

気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか

苛立つのを
近親のせいのはするな
なにもかも下手だったのはわたくし

初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもが ひ弱な志にすぎなかった

駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄

自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ

作・茨城のり子

あまりにぴったりの詩なので拝借しました
posted by みょうみょう at 22:55| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

お客様だけにはけっしてなるまい

私が勤務する老人ホームでは、いつ頃からか知らないが、利用者の名前に様がついている。さすがに呼ぶときは様をつけないが、テーブルの座席や居室の名札、食事の名札など、いろんなものが様付けになっている。利用者はお客様であるという考えであろうが、私が勤務する施設は、ここのお客様だけにはなりたくないというシロモノである。従業員で結構です、とお客になるのは固辞したいような施設なのだ。人を人とも思っていないような介助が横行していながら、外部に対する体裁は情けないほどに取り繕われている。
        
      自分の寝泊りする場所に
      他人がかけてくれる表札は
      いつもろくなことがない

誰の詩だったであろうか。お客様扱いで様付けで呼ばれ、人間の尊厳を踏みにじられているのが、私が勤務する老人ホームである。様づけで呼ぶ相手にろくなやつはいないと、三好春樹はよく言っているが、どうやら本当のことらしい…
posted by みょうみょう at 22:44| Comment(0) | 介護の愚痴 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

被災地で問われる想像力

災害ボランティアに行っていた男性介護職員が昨日帰ってきた。県の要請に応えてのボランティアであるが、被災地での活動内容は特に決まっておらず、高齢者の見守りやトイレの介助などであると聞いていた。送り出す介護部長も、何をしていいかわからずとまどうのではないかと心配していた。被災地においては(どこでだってそうなのだが、特に混乱を極める被災地域では)的確な行動が非常に重要である。4月21日の聖教新聞にNPO法人、ザ・ピープルの活動が紹介されていた。人を助けるには、ただ漫然となにかをしていても役に立たないのである。では、どうすればよいのか?「問われる想像力」「必要なときに必要なものを必要な量だけ」がキーワードであろうか。各地のNPO法人などから多くの物資が届いたときに、それをコントロールしたのが事務局長の甘南備(かんなび)かほるさんであった。例えば、野菜を送りたいと申し出る人には、じゃがいもとたまねぎだけで大丈夫、と要望。調味料は必要かと連絡があれば、みそとしょうゆ以外でお願い、と頼む。身長140cmの女の子の服、下着、靴はありますかとの要望には、子どもだけではなく家族の分までそろえて届ける。なぜなら、せめて子どもの分だけでもと思うのが親心。困っているのは子どもだけではないはず、とのこと。見事な心遣い、想像力、配慮である。「支援とは被災者が自立していくためのものであり、お恵みなんかではない。皆の善意、真心を絶対ムダにしないために、対等の立場で意見を交換した」甘南備さんの言葉である。これは普段の生活や仕事でも同じではないか。介護の仕事をしていて思うのは、自分も含めて、このような視点が全くないということだ。誰もがいやがる仕事をしてやっているんだと言わんばかりの居丈高な言葉や態度。その一方で、サービス業であることを、ことあるごとに強調し、お客様第一を謳ってみせる。そしてプロ、専門職といった言葉を連呼する。お金をもらってやるからプロなのか?資格があるから専門職なのか?「介護の専門職」はボランティアに学ぶべきことが多いようだ。
posted by みょうみょう at 21:59| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年04月25日

なくしたものは大きいが、得たものもある。

聖教新聞・名字の言より

「なくしたものは大きいけど、得たものもある。それは人のやさしさです。」大震災で被災した友の声が心に残る。どの街にも、家族や家を失いながら、他者のために尽くす無名の英雄がいた。これは、マスコミが海外の声として引用するように「日本人だから」できることなのか。略奪や暴動が起きるのが普通なのか。そうではない。人間は大災害のとき、助け合い、自分を投げ打ってでも人に尽くすようにできている。 − 略 - 人間にとって「自分だけは助かりたい」という利己心よりも「人とつながりたい」という思いのほうが、より本質的な欲求なのである。


災害に遭わないにこしたことはない。困難がないのはありがたい。だが、人生何が起きるのかわからない。自分が思いもせぬ災難に遭ったなら、それでも人のために動けるだろうか。困難にぶつかったとき、だからこそ協力して乗り越えると踏ん張ることができるだろうか。大なり小なり困難は生きていくうえであるのだ。そんなとき、誰かのせいにしていないだろうか。自分以外の全てが悪いと思っていないだろうか。自分だけが不運であると嘆いて、被害者のように思っていないだろうか。

『災害ユートピア』という本が静かな注目を集めているらしい。メキシコ大地震、9.11テロ、ハリケーンカトリーナなど、大災害を検証し、普段の秩序が失われたとき、すばやく自然発生的に、相互扶助の共同体が立ち上がることを書いた本である。
posted by みょうみょう at 10:10| Comment(0) | 地震 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

字は体を表す

老人ホームに勤務している。30名の利用者の介護記録を読んでいると面白い。10人ほどの職員が書いてサインをしているのだが、サインがなくとも字で誰が書いたかわかる。記録の内容はさておき、字というのはその人の性質というか、人柄その他をよく表していると思う。字は体を表すというのか。ミミズがのたくったような、かなり慣れないと(あるいは想像力を駆使しないと)読めないような字を書く人。罫線からはみ出さんばかりに大きな勢いのある字を書く人。傾いた小さな字を書く人。ちまちまと丁寧な字を書く人。大人だな〜と思うような字を書く人。小学生か?(しかも3〜4年生くらい)と疑うようなへったな字を書く人(こういう人は文章もひどい)等々様々である。そして、面白いくらいに性格が反映されている。ミミズ字の人はヘナヘナしていていいかげんである。断定。字がでかく勢いのある人は、度量が広い。小さいことにこだわらない。ちまちました字を書く人は人からどのように思われるかをいつも気にしていて、虚勢を張っている小心者である。大人字の人は年配者で歳相応の分別のある大人である。これを当たり前と思うなかれ。歳相応の分別のない人などいくらでもいるし、そういう人のほうが多い。へったな汚い字の人は大きな幼児。勤務年数が一番長く、誰からも文句を言われない、まさに一家の困ったちゃんである。傾いた小さな字の人は性格が読めない…人のことばっかり言って自分はどうなんだって?はいはい、正直に言います。字は汚いです。崩れています。本当に字は体を表すです。いいかげんな勤務ぶりがよく出ています。反省。ところで、若い子の字ってどれも似ていて誰が誰だかサインがないとわからない。少なくともおばさんの私には判別不可能である。顔も若い子は似ている。私には自分なりのカテゴリーがあり、同じカテゴリーの子はまるで双子のように見える…
posted by みょうみょう at 09:48| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

選挙の応援も仕事も同じである

昨日の夜9時半頃、だんなは応援している人の選挙事務所に行った。当確は11時ごろにならないとわからないので、私は眠さに負けて寝てしまった。今朝、だんなから「ほぼトップ当選だろう」と聞いた。昨夜10時半過ぎに町長と県会議員が事務所に来て、確実に上位当選だろうと言い、おめでたムードであったとのこと。候補者は公明党公認の現職議員である。創価学会員の票が大きかったのだろうか?いや、そうではあるまい。大きかったのは、創価学会員が獲得したF票(どうもフレンド票の略らしい)だったのだ。(と思う)彼らの闘いぶり(まさに闘いなのである)はすごい。創価学会員のF票を批判する人は多い。やり方が汚いだとか、しつこいだとか、相手かまわずだとか、いろいろ批判はでている。だが、だからどうだと言うのだ?生保会社、銀行、なんであれ客を取ってこなきゃいけない仕事であれば、家族や親類、友人に頼み尽くした後は新たな客を獲得しなけりゃならないだろう。やり方にきれいも汚いもあるだろうか?多く売った社員が優秀なのではないか?売れてないけどいい人だからといって認めてもらえるか?売ったものが優秀で勝者であるというのが世の常識である。それがこと宗教団体となると、やり方どうこうと言うのである。だが、内心ではうまいやり方してるなと思ってるのだ。おこぼれにあずかりたいと思ってるのだ。それなら素直にそう言えばいいのである。素直に言えないからうだうだ言ってるのだろうけど…票集めにいっしょうけんめいになっている学会員を笑うことはできない。自分にできるかと問われたら、できないのだ。子どもに限らず大人だって何かに夢中になれない人間はつまらない。だんなはなんか煮えきらず、中途半端な応援ぶりである。私も同じく…
posted by みょうみょう at 09:22| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年04月24日

オムツ交換と旅の関係

私は老人ホームに勤務しているのだが、夜勤中にオムツ交換をしていると、必ず旅に出たくなる。青春18切符で電車に乗って全国を回りたくなるのだ。なぜだろう。夜勤が孤独でつらいからか?現実逃避なのか?東京で買い物をしたいとか、神戸でおいしいケーキを食べたいとか、ハワイでのんびりしたいとかではなく、青春18切符の旅なのである。ただただ延々と電車に乗って、窓の外を眺めたり、文庫本を読んだりして、ご当地土産を買う。これがしたいのである。山陰、四国、紀伊半島、東海、東北はざっくりと回った。残すは九州と北海道である。心残りでならない。遠いところなので、5日間は必要である。仕事をやめる2年後まで待たねばならないのか…行きたい行きたい行きたい!!夜勤のたびに行きたい病にかかり、そのうち忘れる、を繰り返している。仕事をはじめると、定年退職でもないのに、仕事をやめたらあれをしよう、これをしようと退職後を楽しみにしている。私は過去に2回失業給付を受けたことがる。これは大変楽しいものである。収入は少ないが、時間がたっぷりあり、金のかからない生活を満喫することができる。とはいえ、青春18切符のたびといえども、ごはんを食べたりホテルに泊まったり、交通費以外にもお金がかかるのだ。失業給付を受給しながら行くのは贅沢である。貯金が残ってるうちにさっさと行かねばならない。だんなとヨーロッパ旅行の約束もしている。忙しいな。でもこんなことを考えていると、少しは仕事も楽しくなる。ところで、私はもしだんなが先に死んだら、アメリカ旅行をしたいと思っている。電車やバス、車で全アメリカを回りたいと思っている。私が先に死んだらできない。せずじまいで死ぬのは残念だな…だんなより長生きしたいな…
posted by みょうみょう at 20:57| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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